瞑想への門口に立つための応用例

 

 

白隠禅師という御方は数多くの禅画や墨蹟を遺してます。

 

 

達磨さんの絵で禅師の禅画で目が開いた達磨さん

 

この方の達磨さんの絵は美術本でも私は何十枚か拝見しましたし

 

インターネットでも拝見しましたが

 

禅師の描く達磨さんのぎょろ眼は、

 

ほぼ必ずと言っていいほど

 

眼球を眉間に向けて上に描いてます。

 

 ↓ ↓ ↓
https://goo.gl/SwDEdc

 

( 以下 画像 引用 )

 

 

 

※なお目が下向きのが約1枚混じってますが
これは白隠禅師の禅画ではありませんので念のため申し添えておきます。

 

 

禅は門外漢なので本来はコメントする立場にないですが

 

私も般若心経を心誦するときは、眉間を涼しくして肉の目の目線を上にして行ってますし禅ルート以外の・・水想観や日想観・・阿字観はたまた安定打坐以外の瞑想とかも幾ばくか参究して瞑想好きな私の立場から観てすら、この御方が禅マスターってのが漂い匂ってくる気はしています。
そういう方面からも白隠禅画は深堀りの研究が進んでいくのかもしれません。

 

 

 

ところで

 

 

 

今回のを瞑想の橋渡しにするという観点から、後半は瞑想に少し触れた内容にしましたが

 

なぜ?こういうのを発案( 提案 )したかと申しますと

 

 

以前少し瞑想を教える機会があった際
多少研究してきた関係で、いろんな瞑想の方法を知ってはいまして
大概の方が安定打坐はご存知だったので
無難な安定打坐以外で無難なのを教えたことがあるんですが・・

 

私にとっては非常に具合の良い瞑想の方法であっても

 

ある人たちにとっては

 

雑念妄念塗れで私には無理です・・
瞑想ではなく迷想になります・・

 

という笑うに笑えない悲痛な訴えが多かったし

 

 

私にとって良くても他の人に良いとは限らない・・ということに気づかされたことがありました。

 

 

尤も・・瞑想については、心を受け身にする作業が入り

 

深いとこに傷がある方の場合は、かえって好ましくない影響を心身に与える場合があるというのは

 

私も知っていました。

 

これについては出家した方ですら座禅なんかの修行で
気が狂う方もいるというのは、よく知られた話でして

 

鬱屈した暗い感情を長く抱えてる方や食生活、身口意を含めて
生活が素朴でない方が、いきなり座禅に取り組むと

 

今まで自分の深層意識の奥深くに抑圧していたものが急に表面意識に出てきて
制御する術を知らず、人によっては、おかしくなるというケースは
一般人ならわかるけど厳しい修行を経てきた雲水ですらも、そういうことは、起こりえるとされています。

 

確か明恵上人なんかも、そのことを公に認めていたと記憶しています。

 

 

更に述べるなら

 

白隠禅師ですら、修行のプロセスで狂いと紙一重、一歩手前というとこまで追い込まれたし

 

禅師は、立派なお弟子さんを沢山育成した方としても有名なんですが

 

それでも、おかしなことになったお弟子さんも相当数にいたと聞いています。

 

 

 

 

そういう事例があることは十分に知ってまして、幾ばくかのリスクがあるというのは
私も、これは配慮が必要だろうと思ったので

 

雑念妄念塗れの方でも、なんとか瞑想の恩恵を受けることが出来ないか?ということで
悪戦苦闘を重ね日本人に合う無難なのはないか?というので
( とはいえ私も日本人で、ごくごく普通の一般人ですが )

 

単純でシンプルなものをルート開拓したというのもあります。

 

 

 

 

雑念が叢雲のように湧くような方の場合
気にするな!と言われても引っ張られるのが人間の性です。

 

 

それなら心が明るく清められ、その振動数を高めることのできる尊いお経に集中し

 

気海丹田を意識し

 

例えば延命十句観音経を念誦するマントラ( お経 )の声や念を観察し一心に集中して

 

唱えりゃいい・・

 

 

マントラの助けを借りて深い平安や喜びに繋がって心のゴミの影響を吹き飛ばしブロックしつつ

 

 

´心地のいいとこ、無風状態の静かなとこに降りていく´ことで更に雑念は入らなくなる。

 

さらにお経( マントラ )に畏敬の念を抱いて高速で唱えれば唱えるほど

 

馬鹿馬鹿しいほど単純かつシンプルで申し訳ないけども

 

掃除機のように回転させてゴミを吸い上げ吹き飛ばすことで

 

雑念は湧かないし、ブロックされる。

 

そういう心的行為を利用して心に真空状態を作って
丹田の寶所の心地いい静かで悦びに満ちたとこに深く入っていけばいいってことになります。
( ただし延命十句観音経の場合 )

 

瞑想という点では一心に気海丹田の1点に向けて精神集中し只管高速暗唱しつつ
するというのも
上半身の力を肛門を丹田に向けて締めてバランスさせ気海丹田に気持ちを落として
気海丹田に心を鎮めて只管´お経( マントラ )に集中するという
´有我(丹田)一念´という三昧状態を作ってることになります。

 

これだって極度にお経の文言に心を深く集中させるわけで

 

超高速で唱えることで( 雑念を湧かせず )

 

お経( マントラ )というツールを用いた一般人でも無難な立派な「 瞑想 」と考えることもできます。

 

「 極度の注意集中と、無心あるいは虚心の状態は非常に近接している 」

 

というのが、自身の直感でありいろんな瞑想体験上の持論です。

 

そういう、とことんまで注意集中する力を磨く・・

 

その集中を深めていく対象が深い精神集中で唱えることで
心をクリーニングし清めて心の波動の質を高めてくれ
無念無想の門口に立たせてくれるというマントラ( お経 )であり

 

気海丹田で只管高速で念を誦することでリスクがなく
物に動じなくなるクンバハカのコンクリーティングもできる。

 

また

 

心のベルトコンベアを行き交う連想観念を

 

明るく朗らかに生き生き勇ましいものが行き交うように変えるきっかけになる。

 

今回メインでピックアップしたのは効果絶大で深い歴史背景があるとされる・・

 

さらには仏教を信奉する国家圏を俯瞰すると日本はもちろんアジア圏を中心に
歴史的に、はかりしれない慈悲と施無畏の象徴として観音さま( 観世音菩薩 )に対する
信奉っていうのがどの佛さま、菩薩さまのなかでも抜きん出た土壌が精神風土として
´心的空間´という場に浸潤して遺ってる・・

 

失われつつあるとはいえ、それでも伝統は消えないだろうということで
観世音菩薩( 観音さま )の高次の導きを念じる「 延命十句観音経 」をメインで援用しました。

 

便利になることは良い事ですし人間の解放に繋がる事だと思います。
しかし度が過ぎるとよくない気が・・
あまりにも感覚の欲や本能の欲を煽り物欲をあおる物質文明と科学万能主義で
恩恵を受ける肥沃な土壌みたいなとこの上に、がれきの山がわんさと溜まってしまった感があります。

 

 

モノや感覚の欲を満たすのに躍起になっていて
失う事への恐れや不安が常に付きまとって何に渇き苦しんでるか分からない方も多い。
そこから、いったん心を離して本来一体自分の心を豊かにしてくれるのはなんなのか?
こんなこと偉そうに書いてる私も含めて・・ですが、こういうのを契機に考えるのもいいかもしれない・・

 

 

ちなみに

 

 

今回の方法は、延命十句観音経に限定してるのではなく

 

 

とにかく、あなたが尊敬と畏敬を感じ喜びを感じ
心の深いとこを尊く清々しくすると予感できるものだったら
ある意味何でもよいと思ってます。

 

私のようにバイブルが好きで、その聖句に尊敬を感じるなら有名な詩篇23:1〜4とか

 

なお、もしあなたが宗教的なのは抵抗を感じて好まない・・という方でしたら

 

あなたが深い共感と尊敬を感じるなら

 

 

例えば

 

 宮沢賢治の「 雨ニモマケズ 」という詩でもよい気がします。

 

本質のとこは、先ずは、その言葉に尊敬念を感じ
普段の連想観念が明るく朗らかに生き生き勇ましくなっていくか?だと思ってるので・・

 

 

そういう意味では

 

サイトで一貫して´鬼押し´している心身統一法で言えば

 

「 誓詞 」や「 統一箴言 」の尊い誦句・・これをあなたが強い尊敬を感じ愛せるなら
この方法に当てはめて高速で暗唱できるようにしてもよいし

 

エミール・クーエ博士の暗示療法に
「 私は日に日に あらゆる面で ますます よくなっていく 」
という言葉がありますが

 

これを尊く感じ貴重に思えるなら、この言葉を深い集中力を伴わせて丁寧に繰り返す際に

 

この方法を当てはめるというのでも、ひょっとしたらよいのかもしれません。

 

 

私は背景的に工学的な方面の履修をしてきたので

 

共通項を探って高度に抽象化する習性が普段からあるんですが

 

そういう目で見ると

 

心がパワフルになる尊いフレーズを深い精神集中で繰り返すことで基礎条件が満たされ
自我も積極に浄化化され、その一方で無我無念、空っぽという領域の間口にリスクなく立つことが出来る。

 

 

 

これだって瞑想・・こういうのが庶民である私たちに合ってるし
私の場合は別ルートの瞑想で参究してるんですが、人それぞれなのかもしれませんけど
「 念仏 」というのにあまり異和感を感じない日本人にとって
歴史背景から見てフィットしやすいのかもしれないと思っています。 

 

なぜなら数息観や阿字観、水想観などの瞑想・・これらも優れた瞑想方法ですが
結局抽象化したら精神統一の´対象´とルートが違うだけです。

 

目標をどこに定めるか?ということになると、また趣は違ってきますが

 

抽象次元に引き上げたら本質的には違いはない。

 

 

本人に合うか合わないか?

 

実践を積算していくなかで

 

日常生活における連想観念が明るく朗らかに生き生き勇ましく、かぐわしくヴィヴィッドになってく実感があるか?

 

というのが重大なチェックポイントの一つになると私は思っていますので。

 

 

 

 

あと何時間もするものではない・・と個人的には思っています。
そんなに時間が取れない方ばかりだと思うから言われなくてもわかってると思うけど(;^_^A
ケースバイケースだと思うんですが1日15分から20分以内が妥当というのが私の個人的見解です。

 

 

ただし実践する際は、暗唱を累積させて無理ない形で定着と負荷を繰り返し少しずつ能力を超える負荷をかけて
とにかく2日やって7日休んだりというような雑なことをせず

 

実践する際は毎日少しずつ一定の負荷で集中をし地道に続けるという形にする。

 

そうして脳および腹腔神経などを最適化させ少しずつ負荷をかけつつ
先ずは千回(千巻)まで持っていくというのは
累積作用と脳を馴らし、かつある意識領域にすっと入りやすくさせる
微かな手ごたえを感じる際の一つの目安として
数の累積効果という視点でも秘密があると(体験上)思っています。

 

 

では、なぜ?一定の負荷をかけて持続性を保って続けるとよいかと申しますと

 

メイン・サイトのSTEP5でも書いたんですけど

 

原始人になったつもりで火を起こすことを、ちょっと想像してみてください。

 

木を摩擦して火を起す・・あれです。

 

これを想像していただけば自明なように

 

継続的に、ある一定以上の精神集中力を伴わせた、純一無雑な努力と言いますか
ある一定以上の負荷をかけた力で持続的に摩擦し続けないと・・

 

あなたもよくご存知のように

 

少しやって止める・・また思い起ってやる・・すぐ飽きてやめる・・
勢い込んでやり、すぐに萎んだ風船みたいに止めたり・・というような
雑で半端で、気まぐれなやり方では

 

火を起こすという結果( 成果 )に結びつきませんよね。

 

努力が水泡に帰すってことになる。

 

物理作業も集中力を伴わせる心的作業も似たようなもの・・
あれと同じようなものとお考えになってもよいと思います。

 

 

 

 

 

 

更に追記で・・このサイトの著者である私は実務的な人間なんでスピリチュアルから入って
いきなり現実的、実務的になって終わりますけど

 

学生さんや資格試験などの取得に奮闘してる方の場合は、このページよりも
視覚脳強化と精神統一のページなどを参考になされて
集中力を高めるようになさって興味を感じて、どうしてもやりたい方の場合は
´気海丹田の寶所に向かって集中し延命十句観音経等1000回´を目安に方向づけし
これによって普段の生活において心のハイウェイを流れる内界の連想観念が明るく朗らかに生き生きしていく実感があるか?
その手ごたえを吟味すると時間の負担も少ないのでよいのではないでしょうか?

 

あとまあ、この方法も5年以上寝かせて無難なことも確かめてますんで、その点は安心してくださって構いません。

 

 

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